(一一)はじめに ── どんな立場であろうが、いうべきことはいわなくてはならない それにしても、こうやって書き手や読み手のレヴェルの低さをいいつづけてきた私に向けての、「そういうことはいうものじゃない、そういうことをいうのは下品だ、賢明なひとはそういうことはいわない、思っていてもいったりはしない」という意見も想像されます。つまり、私は最初からただ自分の薦めたい作品の紹介だけをしていればよかったのだということですよね。そうすれば誰も私に腹を立てたりしない。もちろん私もそれは考えていました。しかし、敢えてここまで長々といいつづけてきました。 『白い犬とワルツを』のことがなかったら、私もこうはしなかっただろうと思います。とはいえ、もう誰もあの作品のああいう事情などなどおぼえていないかもしれない。
あるいは、これでもまだまったく上品な方だ、もっと徹底的にひどいものをひどいといわなくてはならないのではないか、ということも考えられますね。 私がこの先もまだこれをいいつづけるのかどうか、自分でもわかりません。とにかく、私がここまでいってきたことは、私の選んだことだということです。いうべきだ、いわなくてはならないと思ったんです。そうしないと、始められない、と。もっとも、「始めることになってしまった」とは、やはり思っているわけですが。 もうひとつ。現役の書店員でありながら、それをいうのはどうか、という疑問ですよね。現実に自分の勤めている店では、私のいう「主流の」読者向けの品揃えをしているにもかかわらず、こんなことをいっていていいのか、ということです。 まず、とても単純な回答をします。ちょっと前に『白バラの祈り ゾフィー・ショル、最期の日々』(マルク・ローテムント監督)という映画を観たんです。これは、第二次世界大戦中にドイツ国内で反ヒトラーのビラを撒いた学生たち(そのうちのひとりがゾフィーです)を描いた作品なんですが、彼らを逮捕した側が彼らに突きつける理屈が「おまえたちは誰に食わせてもらっているんだ? おまえたちにいまのような暮らしができるのはヒトラーのおかげじゃないか」というものなんですね。もちろん学生たちはそれに抗うわけですが、私がこの映画を観て思った、あるいは再確認したことは、どんな立場であろうが、いうべきことはいわなくてはならない、ということでした。 あるいは、
また、
それとも、私のいいぶんに腹を立てているひとに向けて、これはどうですか?
「二足す二が四」が出てきたついでに、「二二が四」にも登場してもらいましょうか?
で、またもちょっと前の引用を繰り返して、
さらに、もう一度『神聖喜劇』に戻って、
必要以上と思われるほど引用ばかり並べてきましたが、 現役の書店員でありながら、それをいうのはどうか ── でした。しかし、では、誰がこれをいうんでしょう? そうして、おそらく、「『白い犬とワルツを』以降」と呼びうるかもしれないものを刻んでしまった書店員(つい最近 ── 二〇〇六年十二月 ──、「それはあなたの十字架ですよ。ずっと背負っていってください」とあるひとにいわれました。「あれをやった以上、変なことはできないでしょう?」と。このひとは、私がなにもいわないうちに、さっとそういったんですね。驚きました。)がこれをいうのが、特に意味のあることじゃないでしょうか? |